王子の名所案内

王子稲荷神社(1999年のニュースより)

 王子稲荷神社は、今から一千年の昔「岸稲荷」として、この地にまつられ、関八州総元締の稲荷としてあがめられました。まつられている神は「稲荷大明神」という衣食住の神で、古来産業の守護神として、広く庶民がおまつりする神様です。境内は台地の中腹にあって、約二千坪。昔は、こんもりと茂った杉の大木につつまれて、昼も暗く、山中にはたくさんの狐が安住し、神の使いとして大切にされていました。その跡は、今も「お穴さま」として保存されています。料理屋と狐を舞台にした「王子の狐」の落語は当時の模様をよく伝えています。

商売繁盛と火防せの神

 江戸時代、徳川将軍家の厚い保護もあって、庶民の中には稲荷信仰が盛んになり、なかでも王子稲荷の商売繁盛と火防せの御神徳は広く知れわたるところとなりました。そして江戸中期より、二月の初午には火防守護の凧守が授与されるようになり、これをまつると火難をまぬかれ、息災繁盛するとして、にぎわいました。これにちなんで、縁起の凧を商う凧市が境内で開かれるようになり現在に至り、東京名物となっています。

 奴凧がお守りになっている由縁には、江戸期の火消しの姿と奴凧の姿が結びついたものとか、あるいは凧は風を切るというところから火事を防ぐお守りとされたとか言い伝えられています。

かがり火年越し 大晦日の狐の行列

王子装束ゑの木・大晦日の狐火という絵

 右の絵は江戸時代1856年の広重の代表作で、名所江戸百景、王子装束ゑの木・大晦日の狐火という絵です。その昔、毎年大晦日になると、この榎のもと狐が集まり装束を整えて王子稲荷にお参りしたという言い伝えから、この木は装束榎と呼ばれ、現在この地には装束稲荷がまつられています。右手奥の森は王子稲荷の森でしょうか。

 現在王子の街の人たちは、この「大晦日の狐火」を再現して、大晦日の午後11時から「かがり火年越し」を行い、除夜の鐘を合図に、人が狐に化けて紙の裃やきつね面で装束を整え、ちょうちんの火をかざし、装束稲荷を出発して王子稲荷神社まで「狐の行列」を実施しています。

北区中央公園(米軍王子野戦病院跡地)(2000年のニュースより)

 十条自衛隊基地の南に広がる区内最大の北区中央公園。この一帯はかつて米軍王子野戦病院の敷地でしたが、いまでは野球場やテニスコート、サイクリングロード、図書館など、充実した施設をもつ美しい公園として生まれ変わり、平和を愛する区民の憩いの場となっています。

 戦前、この一帯には陸軍造兵廠の鉄砲製造工場がありました。そして戦時中の北区(当時は滝野川区と王子区)は二三区でもっとも広大な軍用地を有していました。

北区中央公園文化センター(元陸軍造兵廠本部)の写真

 敗戦後、米軍がこの陸軍用地を接収し「キャンプ王子」(兵器修理工場)として使用。その半分は1995年に自衛隊十条基地となり、残りの半分に、米軍は1986年、ベトナム戦争の激化に伴い、米軍王子野戦病院を開設しました。
 しかしベトナムからの傷病兵を輸送するヘリコプターの騒音、伝染病発生などで住民の反対運動が強まり、1971年に米軍基地は全面返還。北区中央公園、都立王子養護学校などがつくられました。

元陸軍造兵廠本部の建物(右の写真)は現在も北区中央公園文化センターとして利用されています。

王子神社と熊手市(2001年のニュースより)

熊手市の様子の写真

 王子神社は8代将軍徳川吉宗の出生地・紀州の熊野三所を勧請したもので、吉宗はたびたび王子神社を参拝したと伝えられています。

 北区の無形文化財に指定されている「王子田楽」を奉納する毎年8月の祭礼と、12月の熊手市で知られる神社です。境内には都の指定天然記念物である大銀杏もあります。
 王子神社は開運の神様を祭りますが、熊手でさらに運をかきこもうと戦後復活して毎年12月に市が立つようになりました。

 幸福やお金をかき集めると、縁起をかついださまざまな熊手が店先に並び、売買が成立するたびに威勢のいい三本締めの掛け声が飛び交います。

飛鳥山公園(2002年のニュースより)

 巣鴨方面から北上した都電荒川線は、左右に大きく3回カーブを切りながら、JR京浜東北線王子駅のガード下を通って東の荒川方面に向かう。この駅の南側に飛鳥山公園があります。飛鳥山の地名は、元亨年間(1321~24)に豊島氏が紀伊国新宮の飛鳥明神の分霊を祀ったことにちなむと伝えられています。

 8代将軍吉宗はこの地を行楽地とするために、当時1270本もの桜の若樹を植えさせました。その景勝は『飛鳥山十二景詩歌』や、歌川廣重の浮世絵など数多くの作品に歌われ、以来花見で賑わう名所となりました。

飛鳥山公園の写真

 飛鳥山は、もとは旗本の野間藤右衛門武生の領域でしたが、元文2年(1737)に、幕府が収公して王子権現の社地とし、その管理を権現の別当である金輪寺に委ねたものです。同年、吉宗が飛鳥山を整備して公共園地としたことを記念し、金輪寺住職により石碑「飛鳥山の碑」が建てられました。

 飛鳥山は夏は蛍、秋は虫聴と紅葉、冬は雪見の名所でもあったことから、吉宗の桜の植樹により、四季を通じた行楽地となり、明治6年には上野、芝、深川とともに日本最初の公園として開園しました。

参考文献:「地名で読む江戸の町」大石学著